心学
先日の心学商売繁盛塾「今こそ商人哲学を磨く時代~ビジネス思考、成功法則なんてクソくらえ!」には、多くの方々にご参加いただきました。
ありがとうございました!
今の時代は、閉塞感が漂うという表現をされることがあります。
では、その原因はどこにあるのでしょうか?
過去を遡れば、日本は中国からたくさんのことを学び国家を発展させてきました。
明治維新の際には、西欧からたくさんのことを吸収し、国力を蓄えてきました。
そして、戦後にはアメリカから多くのことを学び、焼け野原から奇跡的な復興を遂げてきました。
そして、今、どこを日本は目指すべきなのか?ここが曖昧なゆえの閉塞感のように思えるのです。
どこを目指すべきかといえば、物質的文明の進歩ではなく、精神復古を基礎とする進化ですよね。
精神文明は、物質文明に比して数百年もの間、放置されてきています。
過去を振り返れば、同じような過ち、同じような争いを繰り返しているのがここ数百年の歴史のように思えます。
昔の人たちの読んでいた本を読むととてもよく感じられるのですが、子ども用の本でもやたらと難解に感じます。
むしろ、精神面で退化しているのではないか?と思えるくらいです。
このままではいけないという言葉をよく聞きます。
これは、どのような意味なのでしょうか?何をこのままにしていてはいけないということなのでしょうか?
社会現象を引き起こしている心の状態をこのままにしていてはいけないということと僕は理会しています。
だからこそ、もっと勉強し、心のレベルを本当に高めないといけないと強く感じています。
心学商売繁盛塾の役割は、本当に大きいものと自負しています。
方法論よりも
今の世の中は、ネットにより簡単に答えらしきものが調べられます。
その影響からなのか、難しく自分で深く考えなければいけない書籍よりも、簡単に方法論という答えが見つかるような書籍のほうがよく売れているらしいですね。
しかし、それは表層の答えらしきものであり、自分の血となり肉となった智恵ではありませんよね。
現実の中でも様々な試練、経験を踏まなければ、生きた知恵にはならないとよく言われるようになりました。
痛い思いをせずに簡単に成果は得られるものではないのでしょう。それを簡単に得ようとするところに問題があると思います。
そして、方法論には、普遍的なものは案外少ないのではないでしょうか?
自分が現場の中で汗を流しながら編み出したものが、自分自身が使える方法論であって、それが他人に通用するとは限らないように思えます。
むしろ、そこに囚われてしまうほど、現実の問いに対する自分なりの答えから遠ざかってしまうように思えるのです。
遠回りのようなことが、実は着実に歩める王道であり、近道に思えるようなことには、罠が多く潜んでいるのではないでしょうか?
楽をしようとせず、自分自身の仕事への思い、お客さんへの思いを深く掘り下げ、商売も人生も深く考えていくことが、いい仕事へつながっていく気がします。
休日
役所が休みとなると、仕事柄、少しほっとします(笑)
今日は、休みということで本を読みこんでいきたいと思っています。
そういえば、自己啓発という言葉があります。
本にもそのような種類の本がありますが、ほとんどの本が気分を高揚させてくれる内容になっていると思います。
ですが、本当の啓発とはその逆ではなかろうか?と僕は考えています。
心に痛みを感じさせてくれなければ、それは気づきにも学びにもならないのではないでしょうか?
人間は不完全な存在です。だからこそ、様々な試練がやってきて、魂を磨いていくことが求められるのだと僕は考えています。
そもそも、生きていくことは逆境の中に身を投じていくに等しいことです。
幸福感に浸る、気分が高揚するというのは一時的なものですよね。
そこに執着をしようとすれば、さらなる苦がやってくるように感じます。
逆に身を投げるくらいの覚悟をもって生きるほうが、本当の意味の楽がやってくるのではないでしょうか?
自己啓発とは、気持ちよくなるためのものではありません。
痛みを伴いながらも心を燃やしていくことが、自己啓発の本来の意味だと思います。
休日には、本当の自己啓発本を読んでいきたいものです。
ロングセラー
役所が休みだと、ゆったりした気持ちで事務作業ができます(笑)
料理屋さんにも仕込が必要なように、僕ら行政書士にも下準備は大切なことです。
どんな相談が来るかわからないですし、それに対応できる自分でいるためにも業務上の研鑽はどうしても必要不可欠ですね。
そうしたことは、やはり、土、日や祝祭日を使ってやっていくものなのでしょう。
それと、大切なのは毎日の読書です。
法律は道徳から生まれていると言われていますが、その道徳をさらに根本にまで遡ると、仏教や神道、儒教などの宗教や古典に行きつきます。
最近は〇〇の方法や〇〇の力といった方法論を中心とした本が多く読まれているようですが、ベストセラーよりもロングセラーの古典を読んだほうが、応用が効くにように思えます。
地味だけれども読み継がれていることに時代を超えた価値があるのでしょうね。
業務をきちんと遂行していく上では知識も経験も大切です。
そして、その根本にある智慧は、古典と普段からの生き方、実践から身についていくものなのでしょう。
時間がある休日こそ、読書の時間を大切にしていきたいものですね。
商人哲学
江戸時代に「人の人たる道」という商人道を唱えた石田梅岩。
心学商売繁盛塾の心学とは、この方が祖となり、後世まで伝わっているものです。
心学と聞くと、ただの精神論と思われがちです。しかし、深く学ぼうとすれば、そうではないことがはっきりとわかっていきます。
商売には理論や数値が必要だ思われがちです。
そして、その理論や数値を生み出している根本を掴むことがないがしろにされているように感じています。
目に見えるものばかりが重視され、目に見えないものが精神論だと切り捨てられてしまっていては、現実を変えようがないと僕は感じています。
よく目に見えるものは、目に見えないものによって生み出されていると言われています。
しかし、目に見えない心の重要性に気づいている人は、いったいどれほどいるのでしょうか?
会社の会議で数字に追われ、経営でも数字に追われ、そのようなことを続けていけば、確かに目に見えない心のことはなおざりにされがちです。
しかし、その数字の根本をよくよく考えなければ、商売も何もかも改善していきませんよね。
物質的な革命は、歴史上ずっと行われていますが、精神的な革命は、何一つ行われていないような気がします。
むしろ、一昔前の日本人に比べ、今の人のほうが精神的に劣ってきているのではないでしょうか?
だからこそ、今の時代、生きる哲学を磨く心学が大事なのだと僕は強く感じています
やはり、商売繁盛の根本をなす商人哲学を磨く時代なのだと僕は考えています。
5月3日(火)
契約書作成業務
今日は、いつもお世話になっているお客様が、契約書をつくってほしいということで打ち合わせに行ってまいりました。
合わせて相手方が持ってきている書類もチェックしてほしいとのことでした。
契約書作成業務に携わるたびに思うことがあります。
それは、民法や商法の知識をもっと勉強しておかないといけないということです。
行政書士試験でも一応、民法は試験科目ですが、幅広く万遍ない知識を求められています。
しかし、実際の実務の現場ではより深いレベルで、経験と合わせての知識が求められます。
試験の知識量ではどうしても対応できません。
経験のみならず、座学での知識習得も必要だと痛感するところです。
それにしても、契約書作成業務はあれこれ調べたり、いろいろと想定したりで思いのほか時間がかかるものです。
その時間を短縮するためにも日頃からの研鑽は必要ですね。
より良い仕事をするために、より深い学びをしていきたいものです。
学ぶことそのものを楽しめることが、大切なことなのだろうと常々感じている今日この頃です。
凛とした日本人になれ
今日、ご紹介する本は、アジアチャイルドサポートでご活躍されている池間先生と読書のすすめ店長の清水さんの著書です。
内容は、かなり刺激的です。どのように刺激的か?といえば、これから先の日本の行く末を考えざるを得なくなるほどの密度の内容となっています。
そして、まだまだもっと、僕は勉強しないといけない!と奮い立たせてくれる啓発本です。
読んでいて本当にスッキリ感が心に残るのは、著者がキレイごとだけを並べていないからでしょうね。
日常の中、仕事を一生懸命に取り組む一方でやはり、日本の将来のこともきちんと考えていかなければいけないなと。
きちんと国家のありようを考える中、僕ら国民一人一人が深く根のはった見識を持つこと、胆力を持つことが、外交上でも不可欠ではないか?と僕には思えます。
いくら仕事に懸命に取り組んでいたところで屋台骨の国が滅びてしまったらどうにもなりませんよね。
土台や根本をより深く考えることが大切なのだとつくづく感じました。
ちなみにこの本を課題本として心学商売繁盛塾で読書会を開催します。
このようなインパクトのある本が課題本になっているので、今からとても楽しみです。
熱意
熱意は、仕事をしていく上で最も大切なことだとよく言われています。
経験上、たしかにその通りだと僕も思います。
ところで、熱意はどこから湧いてくるものなのでしょうか?
「お客様のために」という言葉がありますが、本当にお客様のためにという思いで熱意が湧いてくるのか僕には疑問です。
また、夢という言葉がありますが、夢を実現しようとする意欲で熱意を持ち続けられるのか?これも疑問です。
お客様というけれど、それは誰のことなのか?
あるいは、夢というけれど、それはどんな夢なのか?
抽象的で、地に足をつけていないような思いだけで言っていないだろうか?を自分自身に問いただすことが、すごく大切に思えるのです。
お客さんや身の回りの人々の顔を思い浮かべながら、責任感をもって仕事をしていくことなくして、情熱や楽しさが湧いてくることは、ありえないのではないでしょうか?
現場で熱意をもって仕事をし続けていく中で、お客さんを大切にする気持ちは、お客さんが喜ぶ姿から学んでいくものだと思います。
お客さんが喜んでいる姿を見続けていくことの中で夢や志というものが、はじめて心の中から湧いてくるものなのではないでしょうか?
それが、天に通じる思いなのではないでしょうか?
まず、夢ありき、志ありきではないように思えるのです。
まず、人を喜ばせていく中で、嘘偽りのない思いに気づいていくものだと僕は思います。
成功のためとかそんなのではありません。
嘘偽りのなく人を思う心が、熱意なのではないでしょうか?
謝罪のそもそもを考える
業務日誌をしばらくサボっておりました(-_-;)
また、再開です。
今日は、車庫証明申請の件でちょっとしたトラブルがありました。
先方のミスがあったとはいえ、申請時に自分が気づかなければいけない案件でしたから、とても申し訳なかったです。
そういえば、「申し訳ないです」とか「すみません」という言葉。
僕はなんだか使う時に抵抗を感じることがあるのです。
自分の意地というか我があるのか?責任を必要以上にかぶりたくない気持ちからくるものなのか?
もしくは、その両方なのか?
おそらく自分の心のどこかで「これは自分の責任だけではあるまい。」という気持ちがあるからなのでしょうね(笑)
ただ、肝心なのは、そうした防げれば防げたミスを食い止めるために、自分は誠を尽くしたのかどうなのか?だと思いました。
振り返ってみて、誠を尽くしていなかったと思えば、素直に謝ればよいということになります。
今日の僕には楽をしようとする気持ちがあったからミスをしたという思いがありました。
次の業務につなげないといけませんね。