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謙虚に素直に

昨日は、お茶の稽古でした。

稽古に通うたびに感じるのですが、自身の不器用さ、物覚えの悪さに辟易します。

他の人のお点前や知識の豊富さを知るたびに内心(すごいな~)を連発もします。

一方、手前というのは不思議なものです。

慢心や怠惰な気持ちがすぐに表現されるものだとも感じます。

現在の心のあり様を正確に映し出す鏡のようにです。

だから、下手でも不器用でもいいから着実に、あせることなく積み重ねていければいいと思います。

謙虚に素直に。

器用にできることよりも継続して積み重ねていくことのほうが、もしかすると大切なことなのかもしれません。

雨の日も、風の日も、気分のいい日も悪い日も、ただひたすら通い続けていくことで見えてくるものがあるような気がします。

つまずきの連続の中で大切な何かに気づいていけるように謙虚に素直であり続けたいと昨日の稽古を通して改めて思いました。

純粋な気持ち

本日は、八潮にて茶道の稽古でした。

なぜ、茶道をやっているのか?

読書のすすめの清水店長からいただいた貴重なご縁からです。

4~5年ほど前、どういうわけかふと茶道の稽古に通いたいと思ったのです。

今考えても不思議なのですが、その時にふとおもしろそうだなと純粋に思いました。

普通、自分の仕事に役立つことや能力開発につながること、夢や目標の実現に役立つことを学びたがるのでしょう。

しかし、自分の場合はそうではありませんでした。

そうしたものとは全く関係なく、ただ面白そうという関心からやってみたいと思ったのです。

そして、これがすごく大切なことに今振り返ると思えます。

役立てようとか、教養や礼儀作法を身につけようという目的ももちろん大切なことかもしれません。

しかし、それよりも面白そうという理由のほうがいいと自分は考えています。

人間は自分が思うほど合理的なものではないらしいですね。

たとえば、お金が儲かりそうな業務に就くより、自分がやりたいこと、自分の関心があることに取り組んだほうが、生きがいをずっと感じられるのではないでしょうか?

茶道の稽古に通っていることは、どうもそんなところに近い気がしてなりません。

関心があるからやっている。

にもかかわらず、結果として実は仕事にも日常にもすごく生きているのが、今の茶道です。

ところが、仕事に役立てようと茶道の稽古をやっていては、どうもそうならないような気がします。

ただ、お茶の世界にどっぷり浸かる。楽しく浸かる。

そうした純粋さが、物事に生きてくるのでしょう。

 

茶禅一味

今日は、茶道の稽古でした。

先生がよくおっしゃることに「一つ」という言葉があります。

最終的には、みんな一つに落ち着いていく、和合するのだとおっしゃるのです。

自分にはまだまだそこにある深い意味がわかりませんが、自分なりに考えたことを書いてみたいと思います。

職場に行けば好きな人、嫌いな人がいます。

これはもうどうにもならないこと、避けられないことだと自分は考えています。

仕事をしていればうれしいことも、落胆することもあります。

これもどうしようもなく避けられないことです。

家族と一緒に過ごすことにしても喧嘩や言い争いもあれば、仲良く楽しい時間を過ごせるときもあります。

しかし、こうして分けてしまえば、何かにつけて心が揺さぶられ、その主(あるじ)が不在となってしまいます。

人間は生まれた瞬間から死へ近づくと言われています。

おぎゃあと生まれたことは誠にめでたいことです。

しかし、同時に死という悲しみへの第一歩がはじまったことでもあるわけです。

では、めでたいのか?縁起が悪いことなのか?どちらなのか?と分けてしまえば、これもやはり主が不在の心となってしまいます。

だから、一つとは受け入れていくという意味になるのだろうと自分は考えています。

生死、苦楽、善悪。

どうも世の中は相反することで成り立っているようです。

本来は分けられるはずのないものを概念として考えるにあたり人間はどうしても分けてしまう習性があるようです。

本来は分けられるはずのないもの、一つということ。

そこにある意味を自分はまだまだわりえないでいます。